宗教に対する見解?

ある宗教団体に属していたことがありました。
現在、退会しています。

その宗教団体の大きな集会で、家族を参加させるように
とのことで、親父を参加させました。
その帰り道、親父が言いました。
「あれは宗教ですることか。」と
私が、「どういうこと。」と返すと
親父が、「シーツの洗濯をして干していたら、シーツの端が三角に折ってあった。聞いたら姑さんが折ったこと、それを恨みに思うなんて、宗教ですることではないと思う。」続けて
「道徳ですることではないか。」と

同様のことが私にもふりかかりました。
その宗教団体の大きな集会で、先生(教祖様)と一緒に
対談形式で、一人の男性が呼び出された話をしました。
かなり酷い親不孝者でしたが、先生の教えに従って実践したら、
救われた。とのことでした。

お決まりのパターン、
教えに従って実践したら救われた。
紹介した2件の話に言えることです。

このことを宗教ではなく、
道徳教育でやるべきことではないか?
と言う疑問が生まれました。
いまだに解決されない疑問です。
聞く人もいませんが、
答えてくれる人もいません。

考えてみると、論語も儒教と言う宗教?
孔子の教えが、宗教と決定的に違うところは
奇跡や教えの通り実践することの恩恵の話のないことです。

話を整理しますと、
人の道は、宗教ではなく道徳教育で教えるべきではないか。
と言うことが私の疑問です。

人の道を学校教育で教わることはありませんでした。
現代教えているものは、方法論でしかありません。
基軸となるものを教えてはいません。

人の道を教える教育があって、そのやり方を教える。
それが、間違えの少ない方法のように感じます。

今の教育で足りないものは、
正しい歴史認識を与える教育。
人間の基軸となる人の道の教育。
だと強く感じています。

話が脱線しているのか、
この話が向かうべき方向だったのか、
よくわかりません。

最初の話に戻りますが、
宗教に対するモヤモヤ感がどうしても
消えることがありません。
他の人でも感じている人がいるとは思いますが?

このようなことを書くことで、
疑問を言語化しているのかもしれません。
お付き合いください。

考えているだけではなく、実践すること。
後悔は、
やって後悔するより、
やらないで後悔することが多い。
と言われます。

自分なりの結論に導いていけるものを探しているようです。
歴史と道徳です。
そこで、論語の勉強をはじめました。
論語は非常に難しいです。
実際に形のないもの?が出てくるからです。
徳、仁、孝、悌、礼などがあります。
ではそれをどのように実践するかは、
論語には書かれていません。
自分なりに考えて実践するしかありません。

宗教の疑問についての、解答を道徳に求めているのかもしれません。

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