経済的自由の先にあるものは、平凡な生活が待っているように感じます。平凡な生活こそ望んでいたことのようです。私の今の環境からしたら、ほど遠い世界になります。私の今の経済力では、経済的自由に到達することはありません。一生ラットレースを続けていくことになります。
より自由を求めて生活をしています。より向上した生活を望んでいます。より良い生活をしようとしています。要は現在より生活水準を上げたものを望んでいるのです。生活水準の下がった生活を望んではいません。考えには無い選択だと感じます。
何をやるのでもそうなのですが、友達を得ることが究極的の目的になります。良き友を得ることが全てなのかもしれません。
親父に金儲けについて、質問しました。努力しているだけでは何もならない。友達が金儲けをさせてくれるんだ。と。
私のようなラットレースを続けている人間に、経済的自由について語る資格はないように感じます。しかし、その先にある世界は、平凡な生活が見てきました。想像なのかもしれません
私の考える自由について、話をした方が良いように感じました。私たちにとっての自由とは、いかに自由な時間があるか。と言うことに尽きます。自由な時間があることが自由そのものです。社畜であった時代に休暇をいただくのも同じことです。
経済的自由の話からは、やや横道にそれますが、
話は、自由な時間を得る話となりました。これからは自由な時間について話をしたいと考えます。
誰しも言っているように、自由な時間を得るには、やらないことを決めることです。ゲームをやっていたけど、止めるとか、テレビを見る時間を1時間にするとか、睡眠時間を削るとか、色々な方法があります。違う言い方をすると、ライフスタイルを変えることになります。
その得た時間で何をするか。ブログを書いたり、勉強をしたり、ボーっとしたり、今までにない贅沢な時間が得られているように感じました。非常に幸せな時間に感じます。
自由な時間とは、ある意味勝ち取った時間です。今までの習慣力に打ち勝って得た時間です。非常に価値ある時間と考えています。そのようなことを考えながら自由な時間を使っていると何かよくわかりませんが、優越感のような想いが湧いてきます。決して人を差別するものではありませんが、不思議です。
自由な時間とは、白いキャンパスに色を描くのではなく、もともと自分の中にあったものを呼び覚ます行為かもしれません。元々の自分を思い出すことです。
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