歴史の情報を得るのに、もっぱらテレビと歴史小説が主でした。何かが違うと感じながら見ていました。識者の方が言うように歴史は見る角度によって違って見える。事実は一つだけど関わった人によって表現の仕方が変わる。
七、八年前にBS TBSで「諸説あり」という歴史番組があったその番組は一時資料や現場検証をしながら進める番組で面白かったですが、一年くらいで終了しました。毎週たのしみにしていました。確か土曜日だったのでその日が来るのを楽しみにしていました。
例えば、関ヶ原の戦いは石田三成が布陣していたのは書状によると、「トウゲ」とだそうです。テレビで出てくる現在の場所ではないようです。実際に現場に行き証拠となる物証を探しましたら、弓矢の矢の材料になる竹が現在の場所にはなく、その「トウゲ」にはその竹がありました。
一次資料や現場から発掘される物から推察すると、歴史が覆るように感じます。全く違う内容のものになります。知りすぎてはいけないのでしょうか。
歴史は勝者がつくる。言われるが都合にいいように書き換えられる。何を信じて良いのかわからないことになります。しかしながら、日本人はそのことを肯定的に捉えていましたし、一次資料からの歴史観を相手にしていないのが現実です。
歴史は学校教育や地域の言い伝えや伝承など、根拠として理解していますが、真実を知ろうとすることはしていません。これで良いのでしょうか。疑問に感じるところです。
これもインターネットが充実し、庶民に至るまでスマホが普及し、情報に簡単にアクセスできるようになったからこそわかるようになったことで、それまでは闇の中でした。
定説になっている歴史と、一次資料に基づく歴史の乖離は一体どのように説明すれば良いのでしょうか。一般大衆は定説になっている歴史を信じています。その歴史観を覆すのは至難の業だと感じています。
通勤時、隣に座っている年輩のおじさんと意気投合して話をしていましたら、建国神話を教えないといけない。とそのおじさんは言っていました。たとえそれが嘘であれ本当であれ教えるべきだ。それがないから現代の若者はひ弱なんだ。とその方は言っていました。そのおじさんの言い分は、学校教育に建国神話を教えるべきだ。と言うのが趣旨です。
歴史を学ぶことは、直接生きることには関係ないことかもしれません。しかし、自己を確立する上でその成り立ちを知ることは大切なことです。
私の現在の心境は、歴史の定説と事実の狭間でどうしてよいのか迷っている子供のようです。
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