学校教育で教わる勉強こそが大切と考えていました。
しかしながら、そうでは無い。と感じるようになりました。
中学生、高校生時代は、先生から寸暇を惜しんで勉強しなさい。と言われていました。
学校教育では、国語、数学、理科、社会、英語などの、知識技能を磨く科目で、人の道を説く学問ではありません。
親からは常に「勉強しろ」「勉強しろ」と言われていますし、社会の風潮もそのようなものでした。「教育ママ」「教育パパ」と言う言葉が横行していました。今では全く言われなくなりました。
私は算数は苦手でした。特に引き算が判らず、説明を何度も受けましたが、納得することができませんでした。先生の教え方も悪かったようです。テレビの番組で同じこと(引き算)をやっていましたが、非常にわかりやすくこれなら理解できると感じました。
被教育者として一番大変なのが、習う勉強の事柄に対する概念のないことです。自分自身に概念のない事象について、想像することすらできません。その事を授業で教わっても、何も入ってくることはありませんでした。
小学生の頃は、当時、放課後に居残りでさせられました。しかしながら、全く身につくことはありませんでした。その先生は生徒に対する愛情もなく、ただ教科書の内容を羅列するだけでした。
今から考えると、その先生とは合わなかった。
しかしながら、義務教育では先生を選ぶことは出来ません。ただ従うだけです。
義務教育に対する考え方を、抜本的に見直すことが要求されているように感じています。
現代の義務教育も、江戸時代の頃の寺子屋教育のように父母の側からも、選べるようになると少しは不登校の生徒を減らすことにつながるのではないか。
ある一部の識者からは、明治の初めから、教育は失敗したと言われています。
一番になることが目的となり、考えることをしなくなった為です。
小学生の教育も、一番になる事が重用されていました。
なぜなら、教室正面左側に掲示板があり、そこには「⚪︎⚪︎君、⚪︎⚪︎さんは算数のチャンピオンだ」
と紙に書いたものが貼ってありました。先生が書いたものです。
今の時代では、父母から苦情来ます。当時の父母たちはその事を静観していました。
逆に「お前も頑張ってそのようになれ」と親父から励まされました。
その先生とは、小学1年、2年が担任でした。が
地獄の日々のように感じていました。
授業中は常に怒りっぱなしで、生徒の状態を見る事なく、授業が進度が優先されていきました。
父母たちも、先生のしてことを肯定していました。
「先生の言うことは聞きなさい」とか「先生の言うことは正しい」と
父母に相談しても言われました。
その2年後、その先生は父母とトラブルになり、転勤になりました。
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