若い頃上司から、⚪︎⚪︎についてどう想うと聞かれました。
辞書を調べれば、わかると思いますと答えると
上司の言い分は、そのことについて、今までの人生経験でどのように考えるか、
自分自身はどのように考えるか、と言うことだそうです。
ここでその上司が言いたかったことは、辞書に書いてあることでなく、
そのことに対してどのように望んでいたか。
と言うことでした。私の言ったことは愚問でした。
もっと違う見方をすると、その言葉を通して上司の生き様が見えてくるように感じました。
上司はその後、朝礼時にその言葉について訓示をしていました。
私も生きている上で、コミュニケーションの難しさを感じています。
褒めたつもりなのに、批判をしたように思われたり、
逆に批判をしたはずなのに、肯定的に受け止められたり、
人によって反応は様々です。
同じ言葉でも、感じ方が人によって全く異なります。
それは生まれ育ちによって育まれたことかもしれません。
好きな人もいれば、嫌いな人もいる。様々な人の中で生きている。
二人以上は、コミュニケーションが生ずる。それが生きていくには必要なことだからです。
若い時期に、言葉を軽視した時期がありました。言葉より行動で示した方が良いと考えてからです。一生懸命に仕事をし、行動をし続けました。がコミュニケーションは改善されませんでした。
その時初めて、言葉の大切さを感じました。行動は行動することの役割があり、言葉は言葉の役割があります。はっきりとした線引きはわかりませんがりませんが、以来言葉の重要性を感じつつ生きるようになりました。
コミュニケーションで大切なのは、相手に対する敬愛の念であり、尊敬の念だと思います。そのことが前提となり、コミュニケーションが成立すると考えています。
自分の至らなさから、相手に不快な想いさせたり、敬遠されたり、悪口を言われたり、思いもよらぬ結果になります。正直な話良い方向に進んだことはありません。何が悪いのかよくわかりません。
言葉の限界を感じたこともあります。言葉とは人々の共通の記号のようなものではないか。約束でそのように使う。共通認識のようなもの。想いや行動を表現するもの。
人の状態によっては、何の話をしても、受け入れない状態があります。その時は何の語らずに同伴するか、遠くから見守るしかありません。また、何を話しても傷つけることがあるかもしれません。話すことの難しさを痛感する場面です。
最近の自分は、極力自分から話さずに聞くことに徹するようにしています。
話をしてボロ出すくらいだったら、何も話さずにただただ人の話を聞くことが誰も傷つける事なく平安が日々があるように感じました。
常に心には、相手に対する敬愛の念を持って、そのことを前提としてコミュニケーションが成立するように感じています。
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