事実は小説よりも奇なり

親父の遺言ではありませんが、
振り返ると言っていました。
小説にも書けないような本当の話。

実際にありました。
7年くらい前の話。
京成青砥駅のホームで都営浅草線の電車を待っていると
見たことある人が降りてきました。互いに視線が合ったまま
どこかで見たことがあるよなあと、相手を見ていると、
思い出し、いとこであると気づき、お互いに声を掛けました。

「I君今日はどうしたの。元気でやってる。」と聞くと
「はい、仕事で千葉に行きその帰りです。」
「どこに行くの」
「関屋まで行き、牛田で乗り換えて東武線で」
「こちらは浅草線で四ツ木まで、頑張ってね」
と言って別れました。ほんの1分ほどの出来事です。

会おうと思って待ち合わせをしても、このようには行きませんし。
小説に書いたら、出来過ぎた作り話として、見られてしまいます。
出会いの妙とでも言うべきなのか。

人生の中で時々出てくる話。出会いの不思議。
人が人間になるためには、人と出会わなければ人間にはなりません。
出会いによって成長し新しい道が開かれる。
そのように変化することが望まれているように感じる。

ここで話が変わります。
人生を考えるのあったて、本当の願いはなんだったのだろうか。と考えてしまいます。自分のエネルギーの100パーセントを願いに注ぎ込めれば、自分も変わることができるし、周りも変わることができる。人間は怠け者であり、愚か者です。いかにして方向を見据えて一歩一歩歩むかが大切になってくると感じます。

同じことを繰り返すようですが、勉強すればするほど自分の愚かさが見えてくる。
勉強することは、発見と、違う世界を垣間見ることが出来ます。

とめどもない話になりましたが、今日のテーマは、出会いの不思議がテーマになっていたように感じます。皆様はどのように感じましたか。他にも同じようなことがありましたが、長くなりますのでおいおい書いていきたいと考えています。

現代の若者を見て、生きることを見失っているように感じます。
横断歩道でスマホを見ながら、前から来る人と接触するなど、一昔前では考えられなかったことです。

失われた30年といわれますが、ただ指をくわえて見ていても、なんの変化もありません。
善悪論はともかく、何かしなければ変わることはない。
行動していく中で、修正することが望まれているように感じています。
教育の失敗が社会に反映する。
まさにその時代に来ていると感じます。

社会人一人一人が、成熟した大人となるように努力する風土を醸成すべく何かできないか。
模索しています。それには心の基軸となるようなものが必要になります。それが本学なのかもしれません。

コメント

タイトルとURLをコピーしました